2017.09.18

人生を振り返ると山あり谷ありで。

「何となく」選んだ進路

「私が九州大学(以下、九大)に入った時は工学部電気系で受験して、入学してから、電気、情報、電子の学科を選ぶシステムでした。高校を出たばかりの子がこれらの学科の区別がつくはずもありません。ただ、高校時代から、プログラムには興味があり(親に電卓代わりにポケコンを買ってもらってBasicなんかでゲームとか作り、同級の藤村君とよく遊んでいました。)、なんとなく情報工学科を選んだんです。」ロサンゼルス・オリンピックのあった1984年の事である。

「当時は超電導がブームで、成績の良い子は電子工学科に進んでいました。宇部高から電気系に入った同級生は、局君が電気、宮本君(みやけん)が電子、松谷君、縄田君、私が情報に進みました。教養のあと、2年、3年で専門を習った時に、やはり、電子系の方が面白いかなって思っていましたが、その上で動くソフトウェアのことも興味があって、結局、ソフトウェア系の研究室に入りました。4年生の時でした。縄田君は同じ研究室、松谷君も近くの研究室でした。」

入った研究室では、日本・世界で有名なネットワークの研究者である博士課程の先輩の指導を受けながら、卒業研究から一貫してネットワークの研究を続けた。修士課程修了を前に、研究室の教授から博士課程への進学について聞かれたが、岡村さんは博士にほとんど関心が無く、就職を選択した。「教授も私は博士に進学するタイプではないと思っていらっしゃったと思います。」と語る。

「両親が固い三菱電機に入ってくれたらみたいなことを言って。高校出るまで、また、出てからも親のいうことは何も聞いたことがなく、ここは親の言うことに従うかということで、1990年に三菱電機に入社しました。バブル全盛のいい時でした。」

会社で働く事への違和感とチャンス…再び大学へ

勤務地は神奈川県の大船。入社2年目に、三菱電機が英国からアプリコットという会社を買収、自社のオフコンをパソコンのサーバ、クライアントに移行させるダウンサイジング事業を開始すると、ネットワークとパソコンに詳しかった岡村さんもその事業に移った。

「ここで、インテル86系のパソコンやイーサネットのハードから学ぶ機会があり、この時期に勉強したこと(ほとんど独学でしたが)は今でも非常に役にたっています。」

3年目に人生の大きな転機が訪れる。新設された奈良先端科学技術大学院大学の教授に就任した九大の恩師から声がかかったのだ。岡村さんは大学に戻る決心をした。「教授が知らない土地で助手の心あたりがないので是非とおっしゃってくれたことと、私もこの頃会社で働くことへの違和感が出てきた頃で、結局、会社を辞める決心をして、大学の助手になりました。当時は博士を持っていなくても助手になれるいい時代でした。」

Linuxとの出会いで巻き返し

1993年に大船から奈良に移り住んだ。奈良先端科学技術大学院大学といえば、山中教授がiPS細胞の開発に成功した大学院だが、当時は情報系だけだった。
「奈良に移ってからは、実は少し大変でした。私が修士を出た後、会社にいた3年間は、インターネットが技術的に革新的に進んだ時期で、助手でありながら、インターネットの知識は詳しい学生より下のレベルでした。」

しかし、ここでLinuxに出会ったことが再び大きな転機となる。当時のオペレーティング・システム(OS)はBSDが主流で、Linux はまだマイナーだった。岡村さんがマイナーなものに取り組んで巻き返すしか道は無いと思ったどうか、今となっては定かではないが、Linux を研究のベースにし、熱を入れるにつれ、雑誌で紹介記事を書いたり、コミュニティの有名人になるほどになっていた。

当時流行していた新しい高速通信方式・ATM(「お金の出し入れをするあれではありません(笑)」(岡村さん))において、OS の知識を生かして高品質な動画、音声を伝送できるシステムを開発した岡村さんは高く評価された。論文も書いた。

ところが、教授が九大に戻る事になり、奈良の研究室は3年で解散。行く場を失った岡村さんは、たまたま公募のあった神戸大学の計算機センターでの面接に合格し、助手で勤務することになった。
「奈良を出る際、九大の博士学生になるなどの選択肢もありましたが、結婚して半年の頃で、新婚でヒモはやばいと思った時にいい機会を頂きました。」

計算機センターのミッションは、リプレースしたばかりのATMキャンパスネットワークを正常に機能させる事だった。
「奈良に移った頃とは違って、この時は自信があり、神戸大学のネットワーク運用管理の仕事を始めました。研究では、実証実験好きな高校の先生に出会って、奈良の時に開発したマルチメディアシステムを応用して高校に次世代的な遠隔授業などを研究でしました。論文も書きましたね。」

ある日、九大から呼び出し!

「神戸2年目の時、九大に戻られた恩師から、私が4年生の時の研究室の教授が、『九大の計算機センターの助教授を探しているが、学内には適任がいない。神戸で頑張っている岡村君はどうかと言って下さっている。論文は少ないが国際会議が多いので許してくれるそうだ。』みたいなことを言われました。急遽、今までの研究成果を博士論文にまとめ、1998年2月に博士を頂きました。ちなみに神戸は面接の際に3年の約束で、4年後のポストはもちろん、昇進もないと言われていました。2年で出たいというと若干もめましたが、九大からも私が赴任する予定の計算機センターのセンター長教授が来てくださり、割愛が成立しました。」

1998年4月、母校の九大に助教授として赴任。最初の仕事は情報処理教育センターで、学生の情報処理教育用の計算機の運用管理を行った。

「大学で、プログラミングの授業を受けられたことのある方は多いと思います。プログラムがうまく動かなかったとき、みなさんが、責任を押し付けていたあの教育用計算機です。
「悪いのはパソコンよ!」「いいえ、悪いのはあなたです(笑)」

幸い、いくつかのプロジェクトに参加させてもらう事ができた。その中で最もよかったのが、やや予算規模の大きなものに参画した際に研究用のルーター装置を購入してもらい、研究用のネットワークを構築、運用できるようになった事だと言う。マルチキャスト、IPv6、BGPオペレーションが研究室で可能になり、恵まれた環境で研究を進めることができた。

世界の舞台で活躍…まるで空飛ぶ研究者

日韓共催サッカーのワールドカップ(2002年)に先立ち福岡―釜山間に光ファイバケーブルが引かれた。岡村さんはこのファイバを研究で使うプロジェクトに参画する機会も得た。

「日韓政府も巻き込んだやや大きなプロジェクトは成功裡に終わり、この時の活躍がきっかけで、日本と韓国の大学でネットワークの研究の交流をする事業の責任者にして頂きました。2003年から8年間です。私自身もこの事業により、数え切れない程韓国を訪問しました。大韓航空は100回搭乗すると、ラウンジ券をプレゼントしてくれるのですが、そのプレゼントをもらいました。私はスターアライアンス派で、普段アシアナ航空に乗っている状況で、です。」

岡村さんが本格的に世界に羽ばたくチャンスも来た。韓国プロジェクトが本格的に始まった頃に、九大病院から内視鏡の教育を遠隔で受けられる仕組みを手伝って欲しいという依頼が舞い込んだ。当初は高速接続の完了した韓国から始まって、お隣の中国に続き、東南アジア、オーストラリア、アメリカ、ヨーロッパ、そしてついにはアフリカ、南アメリカのいろいろな大学病院、病院を訪問するというスケールの大きなプロジェクトとなった。岡村さんの役目はその組織と九大病院の間のネットワーク経路を安定で高速なものに調整すること、病院や大学にファイアウォールなどの制限が入っている場合は外してもらうようその組織のセンターや、各国のネットワーク運用者と交渉することなどだった。

「話し合いはすべて英語だったので、このプロジェクトを通じで英語力も多少アップしたかなと思います。ちなみに、世界3大治安の悪い都市というのが、南アフリカのヨハネスブルグ、ケニアのナイロビ、ブラジルのサンパウロだそうですが、私はすべての都市を訪問しました。また、アフリカのルアンダを訪問した時は黄熱病の予防接種が必須で、これは、自身が軽く黄熱病になって免疫を作るのですが、その段階で死亡する事もあるからと脅されました。」
「でもおかげさまで、海外に行く事への抵抗は全くなくなりました。海外での怖い話、面白い話たくさんありますよ。」

任せられたスペシャリスト


写真1

2005年に九大が伊都(いと)への移転を開始した時には既に同大学のネットワーク運用管理の実質的な責任者だった。毎年文科省に赴いての予算要求・確保や、設計・仕様書の作成、業者選定を担っていた岡村さんは、キャンパスネットワーク導入プロと言える。

「写真 1. で、左側は既に開校している工学部の建物で、右側が建設中の情報系の建物です。ちなみにどれが私かわかりますか?」

「伊都キャンに来られるとわかりますが、広大な土地に高層の建物が並んでいます。そのあらゆる箇所にネットワークが引かれ、無線ネットワークが使えますが、その九大のネットワークの運用責任者が私です。この地道なセンターの仕事を神戸大学からもう20年近くしていることになりますね。」

運用も研究も教育もできるということが高く評価され、2011年、教授に昇進。45歳の時だった。

ほどなく、新たなチャレンジが始まった。2014年2月に副学長から「アメリカの大学とサイバーセキュリティの研究・教育を九大で始めよう」という一本の電話が入る。
「我々は基本 NO (ノー)という選択肢はないので、ここからセキュリティに関する研究・教育活動が始まりました。しかし、それまでも、キャンパスネットワークの運用の範囲でセキュリティ対策に関することも業務でこなしており、全く初めてというわけではなかったので、抵抗はさほどありませんでした。」

2014年12月、サイバーセキュリティセンターが新設され、岡村さんは初代センター長に写真 1. 2004年 伊都キャンパスネットワーク構築の時就任。
「今は、サイバーセキュリティに関して研究・教育を幅広く行っています。こちらの活動も海外での活動が多いですね。写真 2. は、今年ワシントンDCで行われた日米のICTに関する会合で、仲良くさせていただいているメリーランド大学のみなさんとの記念写真です。発表前だったの若干テンパってます。^^;」


写真2

娘たち、そして地域との関わり

プライベートでは高校生を筆頭に3人のお嬢さんを持つお父さん。食事当番として台所にも立つ。かつては仕事や出張に追われる日々だったが、長女の小学校入学を機に「少し心を入れ替えて」子どもや子どもの通う学校、自分の住む地域に関わるようになった。激務の傍ら、長女が小学校6年生の時から4年間PTA会長を務め、長女の卒業式、三女の入学式、次女の卒業式に来賓を代表して挨拶。

「娘たちはいやだったかもしれませんが、親としては最高の自己満足でした。現在は自分が住んでいる団地の町内会長をしています。敬老の日に団地の敬老会を開き挨拶をするのですが、みなさん、私の母親と同じくらいの年齢なんです。父は70才前に他界してしまいました。だから、私の心の中では父は永遠のアラセブンですね。母にこういう事はしてあげられないのが申し訳なく、この日は母に電話するようにしています。」

どんなことも自分が自分のために選んだこと、好きでやっているんだ


写真3

「いい年になると技術のことよりも、管理のことで悩むことが多いです。娘も年ごろになると、親の気持ちと子どもの気持ちがすれ違うことも増えます。こんな時に『うしとら夫婦』という本を読みました。旦那のとらおさんが、奥さんのうしこさんを食べちゃうという怖い話ではなく、最初相思相愛で結婚された、うしとら夫婦ですが、とらおさんが奥さんのために買って帰ってくれる最高のお肉、うしこさんが旦那さんのために買って帰ってくれる最高のわらを、最初はそれぞれ我慢しておいしいおいしいといって無理をして食べていたのが、あるきっかけで夫婦喧嘩をして、食べ物の日ごろの不満もあって爆発・離婚しちゃうというものです。裁判所で最後にお互いに一言というところで、うしとら夫婦はどちらも「私はあなたのことを思ってと、お肉を/わらを買っていたんだけど」というやるせない終わり方をします。」

何かをするときに「親のため」「子どものため」ということを考える人は多いが、○○のため、と思っていた○○がちっともそれをありがたいと思わないばかりか、やめてくれということはよくあることだ、と岡村さんは指摘する。それが原因で落ち込んだり自分を見失ったりする人は多いと言う。

「九大に入った学生さんも「親のため」に来た子も少なくはなく、また、研究室に入ってからは「先生のため」に頑張っているので、それ以上の目標を見つけきれなく、本来の力を出せない子もいます。どんなことも、嫌なことも好きなことも「自分が選んだこと、自分が好きでやっていること。」こう思って活動することが色々なことが最後までできる秘訣だと思います。そうすると、他人にどう評価されても気になりませんし、うまくいった時は本当に嬉しく、また、次頑張ろうという気持ちになれると思います。」

指導者の道に入って既に25年近くになるが、残念ながら宇部高出身の学生を受け持ったことはない。
「萩高校や、光高校、山口高校の学生さんはあります。みんな立派な社会人になっています。こちらに選択肢はないのですが、やはり、山口出身の子が来てくれると嬉しく思います。」

【プロフィール】
岡村 耕二 (おかむら こうじ)さん Dr. Koji Okamura

1984年 3月 宇部高校 卒業
1988年 3月 九州大学 工学部 情報工学科 卒業
1990年 3月 九州大学大学院 工学研究科 情報工学専攻 修了
1990年 4月 三菱電機 株式会社 情報電子研究所 入所
1993年 4月 奈良先端科学技術大学院大学 情報科学研究科 助手
1996年 4月 神戸大学 総合情報処理センター 助手
1998年 4月 九州大学 情報処理教育センター 助教授
2011年 5月 九州大学 情報基盤研究開発センター 教授
2014年 12月 九州大学 サイバーセキュリティセンター センター長

【編集後記】

いつも穏やかな笑みをたたえた岡村さんは、開口一番「九州かたばみ会発足、おめでとうございます。」と言ってくれる気遣いの人でもある。インタビューでは近況報告、九州大学の情報系で勤務している経緯、楽しそうな(笑)海外出張が多い理由や、今後の抱負をお話し頂いた。

「会社で働くことへの違和感や、奈良で職を失い、突然行き場がなくなる緊迫した状況について興味のある人、海外での怖い経験や面白い話を聞きたい人がいたら、ぜひ一緒に飲みましょう」と笑う気さくな岡村さん。

宇部高時代は弓道部に属していた。今も腹筋が割れる程筋肉を鍛えているという噂だ。そうかと思えば、お酒を飲んだ帰りにバスでつい寝過ごしたりする。こんな人間味あふれる教授の研究室なら楽しみながら研究も捗りそうだ、とふと思った。

岡村さん、本日はお忙しい中お時間いただきありがとうございました♪
(2017年9月18日)