私と宇部高校 ♦リレー エッセー♦
もともと、中学校までは運動神経が弱く運動が苦手で体育や運動会、マラソン大会といった行事が嫌で仕方なかったのですが、野球やサッカーと比べてまだ経験者がそれほど多くなかったラグビーをやろうと思い立ったのでした。
最初の練習は、5mダッシュだったことを覚えています。50mを走ると足が速い・遅いの差がよくわかりますが、5mダッシュならスタートの瞬発力だけでしたので運動神経の良し悪しがそれほど出ない練習だったのです。もちろんそれが、10m、15m、20mに伸びていくわけなのですが、この5mダッシュがあったからこそラグビーにのめり込んでいったのだと今となって思い返しています。
しかし、高校3年生の春、高校時代最後となる中国大会山口県予選があり、この試合に勝てば中国大会行きの切符が手に入るという試合で、リードして迎えたノーサイド寸前で私が止められなかったことで逆転トライを許し敗北。中国大会にも行けなくなってしまったのでした。
高校でラグビーしかしていなかったにもかかわらず、最後の最後でチームに迷惑をかけたという思いがあり卒業後は「かたばみ会」に参加しようという気にもなれませんでした。
時がたって、ラグビー部の同級生に会うことも増え、あの止められなかったミスを私だけのせいだと思っているメンバーはいない(ひょっとしているかもしれませんが)と思うと、今度は私をラグビーに出会わせてくれた宇部高校に今まで疎遠にしていた分、なんとか恩返しがしたいなと思えるようになってきました。
2015年に大阪勤務となったときに、関西かたばみ会に初めて参加し、以来関西かたばみ会や、2018年に長崎県に転勤となり九州かたばみ会でもお役に立てれば、少しは宇部高校への恩返しになるかと思う今日この頃です。
— 藤井 徹(ふじい とおる)
州かたばみ会をお手伝いさせて頂いておりまして、会当日は司会を担当しております。お会いした時は、どうぞあたたかく盛り上げてくださいませ!
宇部高校卒業後は立命館大学国際関係学部へ進み、そのまま京都にて新卒入社できもの屋さん(現・京都きもの市場)、28歳で人材採用コンサルティング(旧・ワイキューブ)への転職を機に福岡へ移住してまいりました。32歳より現職の外資系金融機関(マニュライフ生命保険)にてマネージャー職をしております。
今回は私の宇部の街との縁、そして宇部高時代の思い出について振り返ってみたいと思います。
■転校初日が勝負!そんな子ども時代
私の生まれは山口県下関市ですが、父の勤めていたNTTは3年ごとに転勤があり、小学校は山口市、下松市、そして宇部市と3つ経験しています。おかげで、子供の頃から人見知りをしない性格が育まれたのかなと思っています(笑)また、実は私自身が男女の双子でもあり、転校先でナメられたら妹までイジめられる…!と転校初日はいつも気合いが入っていたのを今でも覚えています。負けん気の強さも、この頃に養われたのかもしれません(笑)
▲双子に生まれ、名前は真也と真依子と名付けられる。妹もかたばみ会員です!
宇部へは神原小6年へ進級時の転校でやって来て、神原中2年の終わりと同時に今度はまた下関への転勤辞令が父に出ました。さすがにその思春期真っ只中、かつ受験生になる年にまた見知らぬ土地でゼロから始めるのは嫌だなぁ、、、と家族会議の結果、父1人を単身赴任で下関へ送り出すことになり、結果として双子の妹と共に宇部高へ進学することが出来ました。小中高の計7年間と、山口県内で最も長い期間を過ごしたのが宇部の街となりました。あの時の選択次第では、こうしてかたばみ会と繋がりが無かったかもしれません。そう思うと、1人下関の寮で頑張ってくれた父に感謝ですね。
■努力は自分を裏切らない!コンプレックスを、自信に変えて
宇部での7年間の生活は、その後の私の人生を大きく変えた実感があります。宇部に来るまでの私は、痩せのガリガリで実は相当な運動オンチ。大嫌いだった体育の成績は常に5段階2(苦笑)徒競走もマラソン大会も後ろから数えた方が早く、力も決して強くありませんでした。
転校先の神原小では当時腕相撲が流行っていて、当時から学年で一番体が大きく負け知らずだったF君に、皆で毎日挑んでいました。(ビクともしないのですw)そんな彼が、聞けば「俺、毎日自宅で筋トレしてるからね」と言うのです。それは衝撃でした…!ただでさえこんな体格に恵まれた奴が鍛えているのに、何もしてない俺が勝てるはずもない。差は開くばかりやん…!と。感化された私は母にお願いし、その日のうちにジュンテンドーへ筋トレ器具を買いに行ったのでした。
最初は腕立てや鉄アレイ10回からのスタートでしたが、筋トレ本まで購入し(笑)毎日欠かさずコツコツ、コツコツ。すると小学校卒業時には最初の数倍の負荷をサーキットメニューでこなせる自分がいました。中学で陸上部に入部するとみるみるタイムは縮まり、400m走と砲丸投げで県大会の決勝常連となり、主将も任せて頂きました。体育成績も、常に5に。そして卒業前には、ついに腕相撲であの学年一強かったF君に勝てたのです!「努力は自分を裏切らない」という言葉が、この頃から確固たる信念となっていきました。
■個を、チームワークを、絆を学んだ陸上部
宇部高に入学した初日。「君が村上君だね?つ〜かまえた!」といきなり肩を抱いて話しかけてきたのは、陸上部の1つ上のM永先輩でした。まさかの自分に、陸上部からのスカウトだったのです。
▲3年間、学年唯一の陸上部短距離はまさに自分との戦いでした。
昔の自分では、考えられないことでした。陸上部の先輩方は本当に気さくで優しく、ワガママで生意気な私を本当によく可愛がってくれたなと思います。この年の貴重な入部生が、短距離の私と長距離のK君の2人だけだったからかも知れませんが(笑)
▲三段ギヤの通学用自転車で、仲間とよくサイクリングにも行きました。民家でお茶を貰い(笑)
中国山地縦断、弥栄ダムを越え寂地峡へ!
短距離メンバーは私を含め4人、長距離メンバーも数名で全種目補欠なし(笑)。宇部での大会はいつも各々が得意な3 種目で得点を稼ぎ、最後は4×100mリレー、4×400mリレーで入賞する!個の勝負の陸上競技において、唯一の団体種目のリレーが私は特に大好きでした。あのギリギリの少人数で、いつも総合3位内を勝ち取っていた一体感と心地よさは、忘れられません。
そして最高の思い出は、この4×400m リレーでチーム初の中国地区大会にまで行けた事。これが先輩の卒業前の最後のレースとなりました。練習もいつも一緒だったM永先輩を私は特に慕っていたのですが、ついに2018年夏、宇部でのかたばみ会で卒業以来の再会を果たす事ができました。本当に嬉しかったですね!!
(かたばみ会、ありがとうございます!)
■常にE判定だった、志望校判定模擬試験からの大逆転
勉学の方はと言うと、、、高校になってから一気に数学や化学といった理系にまったくついていけなくなり(笑)得点源の科目は英語、地理、生物のみ。3年生になり、志望校の立命館大学国際関係学部の模擬試験は毎回のE判定、最後の模試でも合格率20%以下でした。クラブ引退後は勉学に集中すると決意し、共に遅くまで勉強し、北予備の夏期講習や冬季講習も朝から晩まで共に通い、お互い励まし応援し合ったのも良い思い出です。そんな親友がいてくれたからこそ、奇跡の本番大逆転合格を勝ち取れたと、本当に感謝しています。
▲宇部で鍛えたコツコツ魂と負けん気のおかげ⁈
着物屋時代は個人売り上げ毎年1億円超のトップセーラーに
▲マニュライフ生命でも毎年社長賞で海外表彰へ。母をハワイへ招待しました。
■今の自分は、過去の経験の積み重ね。すべての経験が、活きている
こうして振り返ってみると、宇部で過ごした貴重な7年間、高校時代に挑んだことや共に過ごした仲間との貴重な時間は、本当にかけがえのないもので自分の人生を大きく変えてくれたと思います。
▲RKB今日感テレビ「磯田久美子のおじゃまち」で、懐かしの宇部の街や常盤公園も取材して頂きました!
かたばみの仲間たちは、世代を超えて全国で活躍されている方が本当に多く、それは私の同級生も同じくです。誇りに思うと共に、私自身も決して恥じない社会人、男でありたいといつも鼓舞されています。これまでの仕事すべてにおいても、きちんと結果を残してこれたのはこうした経験と絆のおかげ。
そしてこれからも長州魂、かたばみ魂を忘れず!挑み続ける人生でありたいと思います。
九州、全国のかたばみの絆が、ますます広がり強くなっていくことを願って!ご一緒に盛り上げて行きますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします!
— 村上 真也(むらかみ しんや)
私の高校生活の中で特に印象深い思い出は、高校2年の文化祭、クラスで取り組んだ『ジェットコースター』の出し物です。まず、出し物にジェットコースター?と想像が難しいかもしれませんが、教室内に設置したお手製のジェットコースターにお客様を乗せるという企画です。
カート部分は、オフィス等でよく見かける荷物を運ぶ車輪付きの台車に、人が乗れるようベニヤ板で囲いをつけ、それをコース(これもベニヤ板製)に走らせるというもの。高い位置に設置したスタート地点から、滑り台の要領で、カーブも設けながらコースを伸ばし、そこに台車を滑らせるという仕組みとしては簡単なものです。
しかし、ジェットコースターづくりは、当時、宇部高校では前例がなく(調べることはできませんでしたが他校も前例がなかったかもしれません)ノウハウも全くなかったため、設計図の無い状態で、コースを何度もつくり直しながら台車を走らせるという作業の繰り返しでした。そのため、数日に渡る試行錯誤の末に、コースターが初めて無事に完走した瞬間のクラス全体で感じた高揚感は今でも忘れられません。また、文化祭当日、小さな子ども達がとても楽しそうに遊んでくれたことは、今でも心が温かくなる思い出です。
(残念ながら、ジェットコースターの写真は残っていませんでした)
ただ、大人になった今冷静に振り返ると、かなり危険な企画だったと思います。何故、突拍子もないこの企画を行うことになったかという経緯は思い出せませんが、担任の先生も含めクラス全員がひたすら前向きに取り組んでいた記憶があります。
そして、認めて頂いた学校と担任の先生のおおらかさと懐の深さ!まさに感謝です。
その他にも、少し高校時代を思い返しただけで、クラスで取り組んだ体育祭のソーラン節、友達に教わりながら参加した文化祭のダンス、センバツ高校野球山口県予選の応援団への参加(学ランもチアリーディングも両方経験させて頂きました)などなど、振り返るとキリがありません。残念ながら、勉強した記憶はあまり出てきませんでしたが、楽しむべき時は、生徒は勿論、先生方もみんな楽しむ、おおらかな雰囲気を持った高校だったなという印象が強く残っています。
宇部高校のおおらかな雰囲気に育まれながら、様々な経験や思い出とともに多くの友達ができました。現在では福岡暮らしをしていますが、友人も同じく福岡に家を構えるなど不思議と縁があり、たまに会って他愛もない話ができるかけがえのない存在です。
また、今年は九州かたばみ会のお手伝いさせて頂く中で、諸先輩方や後輩にも新しく出会うことができ感謝しています。皆様、今後ともよろしくお願いいたします。
— 安原 朋恵(やすはら ともえ)
宇部高にとって、昨年は本庶先生のノーベル生理学・医学賞受賞というビッグニュースが飛び込んできた素晴らしい年でしたね。直接関係はなくても、誇らしく思った宇部高OBのみなさまも多かったのではないでしょうか?私も、なぜか家族に自慢したりしていました(笑)
さて、このたび、せっかくリレーエッセイに寄稿する機会をいただいたので、「最近、宇部市どうなってるのかな~?」なんて思っている方に宇部市の近況をお伝えするため、元日、宇部市をジョギングしつつ、パトロールしてきましたのでご紹介させていただきます。
■スタート(宇部興産)
まず、宇部市と言えば宇部興産(?)ということで、工場群からスタート。元日から元気に稼働していました!
■一久新川駅前店
続いて、宇部のソウルフード・一久です。なんと!宇部新川駅前の一久のビルがなくなっています!!・・・ですが、ご安心ください。お向かいの宇部進の隣のビルで営業していました。
■渡辺翁記念会館
高校生時代には暇なときにたむろし、成人式の際には会場にも入らなかった渡辺翁記念会館。恥ずかしながら、大学の建築学科に入学して初めて超有名建築物と知りました。重要文化財に指定された今見ると、とても素晴らしい建物ですね(笑)
■宇部高校
ずいぶん走って、ようやく宇部高に到着。剣道部時代に日々稽古に励んでいた武道場は、今は影も形もなく駐輪場になっています。雨漏りどころか、室内に雪が降ってきたくらいボロかったしね。校舎には垂れ幕もあり、ノーベル賞のお祝いで盛り上がっている様子でした。
■宇部井筒屋など
ひたすら走って、再び新川方面を目指します。2018年は、昔よく通ったジョイフル宇部中央店や宇部井筒屋が閉店するという寂しいニュースもありました。レッツ09(オーナイン)が閉店した時も衝撃でしたが、今回も寂しい限りです。。。
■宇部市役所
そのような状況の中、宇部市役所が新しくなることをご存知でしょうか?もうすでに、基本設計がまとまり、立体駐車場工事に着手しているようです。
昨今の閉塞感を打ち破り、ここから宇部市を変えるような市庁舎になるのを期待しています!
本庁舎建設への取組について(宇部市役所公式ウェブサイト)
さて、ここまで走ってぴったり10km!もう限界!
・・・というところなのですが、ここに行かずに終わるわけにはいきません。
■ときわ公園
もう走れないので車で移動。昭和51年卒の梶返先輩の勤務先でもあるときわ公園に到着しました。元日から営業中で、多くの家族連れが訪れていました。2016年にリニューアルされた動物園は、くねくねと園路を散策しながら様々な角度から色々な動物の行動を見学でき見ごたえ十分。やはり、宇部市民にとって外せない場所ですね。先輩、お疲れ様です!!
ときわ動物園について(ときわ公園公式ウェブサイト)
ここまで、正月の宇部市の様子を紹介させていただきました。マメに帰省されている方にとっては、「そんなの知っとるわ!」ということばかりかもしれませんが、この記事を読んで「たまには宇部に帰ってみようかな?」という方が少しでもいらっしゃれば幸いです。
それでは、平成最後、そして新元号となる今年が、宇部市・宇部高・みなさまにとって素晴らしい1年となりますように!
— 入江 圭正(いりえ よしまさ)
宇部高校を卒業して8年が経ちます。高校時代の私はというと、何事にも全力で体当たりするような性格でしたので、高校時代のどこを切り取っても思い出話が尽きません。
▲山大工学部で研究をし、学会で発表しました。
私たちが入学の年に、宇部高校がSSH(スーパーサイエンスハイスクール)の認定を受け、理数科だった私は、海外研修メンバーに選出されオーストラリア研修に行かせてもらうなど、その恩恵を存分に受けました。
▲3年間文化祭実行委員を務めました。3年次では、実行委員長に手を挙げ、大勢で一つのものを創り上げることの難しさと楽しさを学びました。文化祭当日、実行委員同士で大喧嘩したことは一生忘れません(笑)
▲宇部高近くの金龍にて。学校と塾の間の友人との食事は最高の語り場でした。毎日毎日、勉強のこと、恋愛のこと、将来のことなど何でも、話は尽きませんでした。
▲「宇部高生あるある」で、塾は第二の家でした(笑)
思い返すと、私の高校時代の思い出は全て、「人との共有」で出来ています。3年間クラス換え無しの半家族のような理数科のみんなと一つになった文化祭や体育祭も、塾で仲間と一緒に勉強を頑張ったことも、友達と恋愛話をしてセンチメンタルな感情を共有したり、泣きしながら大喧嘩したことも(笑)。私は毎日大好きな人たちに囲まれ、一緒に爆笑し、本当に幸せな高校生活を過ごすことが出来ました。
高校卒業後、周りより少しだけ(笑)長く浪人していたので、あまり高校の友達と会うことなく社会人になり、寂しい気持ちを抱いていたのですが、最近、結婚式や同窓会等で宇部高の友達と再会する機会が増えてきました。卒業ぶりに会う友達でも、全く久しぶり感がなく、当時に戻ったかのように話が出来ることを不思議に感じます。
しかし、もっと不思議なのが、高校時代に話したことのなかった同級生とも、まるで高校時代から親しい友達だったかのような温度で話が弾むことです。これは同級生だけではなく、はじめましての先輩・後輩とも、同じ宇部高卒というだけで、親近感を抱き、すぐに仲良くなることが出来るのが、宇部高ならではではないかなぁ、と思いますが、みなさんはどう思いますか?
▲同級生の結婚パーティー。UBE高のUのポーズ。このポーズ流行中です!
もちろん振り分けられたテーブル名は“U”でした。
▲今年11月に初めて開催した、上下3学年での同窓キャンプin伊豆。
集まると途端に学生気分に戻ります。
来年も開催するので、ご参加お待ちしています。(どの学年からもOKです。)
これからも、宇部高校で出会った仲間と想い出を作り、また、宇部高繋がりで今後出会う人との繋がりも大切にしていきたいと思います。
そして、そんな素敵な出会いを今でももたらしてくれる宇部高校に感謝しています。
— 重村 智美(しげむら ともみ)
さて、私は宇部高校に入学でき、そこで学べたことをとても感謝しております。今の自分があるのは宇部高校のお陰と言っても過言ではありません。私は中学・高校・大学、更に教員になっても野球に没頭していました。中学校時代は内野手でしたが高校の野球部に入部すると当時の監督であった石尾先生からピッチャーをすることを命じられました。同級生にピッチャー経験者がいなかったことと、コントロールが良かったことが理由だったと思います。ただ、がむしゃらに球数ばかり投げていたので右肘を故障し、3年生の春休みに手術しました。最後の夏の大会には間に合ったのですが、チームは2回戦で負けてしまいました。 それまで生活のほとんどが野球だったので、このままの成績では入学できる大学がない状態でした。かなり焦ったので、負けた次の日から市立図書館に通い勉強漬けの日々を送りました。図書館では同じ状況と思われる受験生が多数、必死の形相で勉強をしていました。これが刺激になり自分も勉強をしたお陰で大学に入ることができ、また教員採用試験も合格でき今に至ります。 さて、私は色々な事情で独身生活が長かったのですが、あちこちと出かけることが好きで1人でも旅行に行ったりしていました。ただし、私の唯一のギャンブル「競馬」絡みですが(笑)北九州空港から飛行機に乗り、中山や東京競馬場に行ったついでに東京観光をしたり、新門司港からフェリーに乗り京都や阪神競馬場に行ったついでに京都や大阪の観光をしたりしていました。 7年半前に旅行会社に勤める妻と出会ってからは最強の旅行大好きコンビになりました。ただし、競馬場には通わなくなりました。7年半の間に台湾を皮切りに釜山・マカオ、ハワイには3回と海外旅行に計6回行きました。国内旅行にいたっては、北関東や東北にも行きました。国内旅行は月に1回以上行くことを目標としています。旅行が好きだということもありますが、まず旅行に行けば妻のストレス発散になります。料理は作らなくていいし、素晴らしい温泉に入れますし。妻の名誉のために言いますが、妻の料理はとてもおいしいです。 旅行に行く最大の理由は妻の会社の社長 澤田秀雄氏の言葉にもある「そこに行かないと分からないことがある。」からです。旅のエピソードをいくつかお話ししましょう。 まずは国内編から ・栃木県を中心とした北関東(2014年)や東北地方を旅行したときのこと(2015年) 続いて海外編です ・マカオに行ったときのこと(2016年) ・ハワイ島に行ったときのこと(2013年) ・1回目(2012年)と3回目(2017年)にハワイに行ったときのこと 星がとてもきれいでそのツアー自体はとても良かったのですが、深夜にホテルに帰って「さあビールを飲もう。」と冷蔵庫を開けると何にもありません。それまで6回ハワイに来ている妻はすまなさそうにしていましたが、まあこれも勉強と数十年ぶりにお酒を飲まずに寝ました。 世界中どこに行っても英語が通用します。思い切って話す勇気さえあれば大丈夫です。みんな一生懸命聞いてくれます。さあみなさんも旅立ちましょう。 さて、数年前から福岡市在住の宇部高時代の同期生が中心となって同期会が年に数回行われています。フェイスブックでその存在を知った私が参加したいと申し込んだところ、暖かく迎え入れてくれました。毎回出席したいのですが、定時制高校勤務とあって金曜日の夜は授業があるので無理ですが、土曜日のときは必ず出席するようにしています。しかも私が最終の新幹線で下関まで帰ることを理解してくれて、開始時間を早くしてくれて本当にありがたいです。
石神さんは高校時代野球部のマネージャーでした。そのお陰で今こうやってみなさま方とご一緒させていただいている次第です。本当にありがたいです。
温泉の質がヌルヌルでお肌がスベスベになりました。また、料理もおいしく宿泊料金も安かったです。私たちは下関在住ということもあって九州の温泉によく行くのですが、北関東や東北地方の温泉もなかなかいいぞと思いました。ただし私の1番のおすすめは熊本県南小国町の満願寺温泉「志津の宿」さんです。
妻がマカオに行きたいと言い出したときに、私は最初反対しました。
マカオ→中国→街が汚い、食べ物おいしくない、治安が悪い→いやだなあ、という図式が私の頭の中でできあがっていたからです。でも実際に行ってみると、街はゴミ一つ落ちておらず、食べ物はおいしく、治安も良かったです。このことをマカオ1周ツアーの際にガイドさんに尋ねてみると、カジノで潤っている財政で掃除をする人を多く雇ったり、ゴミ回収車等を購入したりしているからだそうです。また、すぐ隣の中国から新鮮な野菜が来るので食べ物がおいしいそうです。またマカオ全体が潤っているので犯罪が少ないそうです。
5泊7日のうち最後の2日間をハワイ島で宿泊しました。最終日の朝1番のホノルル行きの飛行機に乗ろうとしてコナ空港に行くと受付のお姉さんから「フライトキャンセルよ。」と言われました。アメリカの航空会社は乗客が定員に満たなかった場合、フライトキャンセルをよくするそうです。だからハワイの離島に行くときは旅の前半にした方がいいことを学びました。
1回目はマウイ島2泊オアフ島3泊でした。海外のホテルはスリッパはもちろんのことパジャマも置いていないところが多いです。また冷蔵庫の中は空っぽです。初めてのハワイ旅行でしたので計画はすべて妻が立てました。マウイ島のホテルに着くなりすぐにお迎えの車が来て、そのままハレアカラという山の頂上で夜空を見学するツアーに行きました。
ということがあって、昨年のハワイ旅行は全部自分が計画を立てました。オアフ島だけの4泊6日でしたが、とても充実した内容でした。
ハワイは暖かく暑くなく、人々は明るくて優しくて親切で、食べ物もおいしいので永住したくなります。
ワイキキで有名なレストラン「ウルフ・ギャング」
ハワイの英雄「デューク・カハナモク像」の前で
このように明るくて優しい仲間と過ごす時間はとても楽しいです。本当に宇部高生で良かったと実感します。みな様、今後ともよろしくお願いいたします。— 田中雅史 (たなか まさふみ)
私は姉2人の背中を追うように宇部高校を目指しました。ずば抜けて成績優秀ではなかったので、合格発表で自分の受験番号を見つけたときは感動もひとしおでした。高校1年生の夏休み前でしょうか、家路が同じ友人と帰っていました。私が授業内容が難しい旨の愚痴をこぼすと「入学以来、授業で理解できなかったことがない」とケロッと返答。世の中にはすごい人がいるもんだと唖然としたことを覚えています。
高校生活を振り返ると必ずしも青春を謳歌していたわけではなかったと思います。部活動には属さず、かといって学業に打ち込むわけではない。両親をやきもきさせるような過ごし方をしていたはずです。〝黒歴史〟と表現するとかなり大げさですが、目標もなく淡々と過ごした日々を一種の反省として教訓にしています。
だからこそ大学以降は自主性を心がけました。あれこれ難しく考えるより「まず行動!」といったかんじでしょうか。例えば大学2年次には学内選考を運良く通過し、アメリカへの短期語学研修に参加。温かいホストファミリーにも迎えられ、20歳の誕生日は嘘みたいな量の砂糖を使った激甘ケーキでお祝いしていただきました。
語学研修でお世話になったホストファミリー。お別れ時は号泣しました。
行動すると必然的に出会う人数が増えます。魅力的な方に出会うと、その方を基点にまた新たなつながりが生まれました。高校時代の経験が今の私の形成に少なからず関係していると実感します。
高校時代の友人とは定期的に会っており、大学や社会人でできた友人ともどこか異なる安心する存在です。昨年末にも惜しまれつつ閉園した北九州市のテーマパーク「スペースワールド」にも遊びに行きました。年を重ねて互いの環境が変わってもお酒を酌み交わす関係でありたいですと思います。
最後になりますが、高校時代を回想すると改めて懐かしさがあふれ旧友に会いたい気持ちがこみ上げてきました。「私と宇部高校」の執筆機会を与えて下さった石神様ありがとうございました。— 増重 直樹(まししげ なおき)
5年前に福岡に転勤となり、現在福岡県にて勤務しています。今こうして、ここ福岡にて宇部高校卒業の方にお会いできることがとても嬉しいです。 宇部高校での思い出は、多々あるのですが、恩師である大田先生との出会いです。大田先生は英語の先生です。先生の授業では、とにかく文法をたたきこまれます。授業では、部厚い文法の参考書と、英語の教科書を使用します。 そして、一文ずつ声に出して生徒に読ませます。先生の授業はわたしにとって、とても興味深く、わからない箇所があると、授業が終わったら大田先生のところに誰よりも早くかけつけて質問をたくさんしていたことを覚えています。 また、英語の定期テストの前は、ピアノが置いてあるレッスン室(母がピアノの先生だった為、ピアノが2台あるレッスン室があります)にこもり、英語の教科書のCDを何度も聞いて、全部覚えてテストに臨んでいました。今では考えられないぐらい、一つのことに熱中していた気がします。 英語に関しては、父の影響を受け、小さいころより勉強はしていたのですが、これほど英語が好きになったのは大田先生の存在が大きいです。大学を選ぶ際も、英語をしっかり勉強できるところを選択しました。そのおかげで、大学でも川村先生という恩師と出会うことが出来ました。大学では短期ですが、カナダに留学し、一緒に行ったメンバーの中で表彰もされました。 大田先生とは今でも年賀状やメールでやり取りをし、少し前に下関で再会することが出来ました。その時にすすめてくださった本の写真を掲載しておきます。現在の高校の授業の教材として使われているとのことです。日々忙しくしており、すべて読めていませんが、愛する本になります! 社会人になり、高校の時のことを思い出す余裕が持つことが難しい毎日ですが、こうして文章を書いていると、なつかしい気持ちでいっぱいになりました。先生にちゃんと連絡しなきゃ!! 文章を書く機会をくださった九州かたばみ会との出会いと、石神様に感謝いたします。本当にありがとうございます。– 瑞岡 みゆき (たまおか みゆき) 今でこそラグビーワールドカップで盛り上がりを見せていますが、私たちの時代のラグビーはまだまだマイナーなスポーツ。そんな中、私はテレビドラマの「スクールウォーズ」を見て、流れでラグビー部に入りました。福岡でもラグビーワールドカップがあるので楽しみですね。宇部市内でラグビー部は宇部中央高校と宇部高校にしかなく、新人戦で負けると坊主にさせられるという伝統がありました。 もちろん、私たちは坊主にならずにすみました。ただ、山口県下では、大津高校や萩工業高校が強かったため、スクールウォーズの川浜高校のような負け方をしたこともありました。ただ、山口高校のような進学高には、絶対負けたくないと思って戦っていました。ラグビー部顧問のトラ(村田先生)は、高校で一番恐れられていた先生との噂がありました。インゴールでノックオンした生徒に居残りでトライの練習をさせていたシーンをよく覚えています。今でも目を閉じるとトラの叫び声が聞こえます。 私は体が小さく、足が速いわけでもありませんでしたが、練習は好きでしたし、試合も好きでした。大きな相手をタックルして倒した時は、「よっしゃ!」ってなっていました。部活のあとは、残って自主練したり、筋トレをしたり、サッカーをしたり、部室でダラダラ過ごしていました。我が家にラグビー部の友人が泊りに来て、女子の話をずっとしていた記憶があります。誰がかわいいだの、誰と誰が付き合ってるなど。 そんな楽しい高校生活を送っていたにもかかわらず、ラグビー部のみんなとは、卒業を契機に音信不通になってしまう事態に。今でこそ、FaceBookやLINEなどいろんな人とつながることが容易くできる時代ですが、昔は、自宅の電話くらいしか連絡先がわからない時代、だんだん疎遠になっていって、連絡がとれなくなってしまいました。 しかし、40歳の節目でひょんなところからかたばみ総会に参加しようと誘われ、参加してみることに。昔を知っている友人は貴重な存在。昔があるから今の自分があるのだと改めて感じました。同級生とは高校時代の話に花が咲きました。高校1、2年は、男子クラスでしたが、3年生から男女クラスに。体育祭では、女子が作ったサッカーのユニフォームを着て私たちのクラスは、決勝まで進んだ記憶があります。体育祭の打ち上げは盛り上がったなぁ。 かたばみ総会の後の2次会では、高校以来のスクラムを組みました。懐かしさ100%でした。これを機にラグビー部の仲間とも再会できました。高校卒業してから40歳まで音信不通だった友人から結婚式に呼ばれ、先日結婚式に参加してきました。縁があってかたばみ会に参加し、九州かたばみ会のおかげでその友人とつながることができました。 九州かたばみ会の実行委員にご指名を受けましたが、高校の文化祭のノリで楽しく職責をまっとうしたいと思います。高校まで過ごした宇部には私の原点があります。ラグビーにおける「One for all, All for One」の精神は、大好きな原点の言葉です。1つの目的のためにみんなが協力して何かを作り上げる楽しさ。まさに高校生活の文化祭や体育祭を思い出しながら、九州かたばみ会にご協力していきたいと思います。— 田中 裕志 (たなか ひろし) ♦10年後の自分への手紙♦ ♦本当に届いた手紙♦ 当時から海外や世界遺産に興味があったので、旅行のことが多いですね。前半は比較的現実的な内容ですが、後半は少しぶっ飛んでいますね。文末のの2行は特に。。。 当然ながら実現できたものもあればできてないものもあります。実現できたものについて少し紹介させてください。 ♦海外旅行に明け暮れた大学生活♦ いろんな国や文化に触れたことで、高校生の時とは考え方やものの捉え方が大きく変化しました。やはり体験に勝るものはないですね。 と、冗談はさておき、今回九州かたばみ会の同窓会に関われていること、学年幹事として任されていることに自分自身の変化も感じますし、大きな喜びとなっております。その期待に応えられるよう、しっかり日々を過ごしてまいります。 このリレーエッセーのテーマは宇部高とのつながりです。とりとめのない話になりますが、暫しお付き合いくださいませ。 ♦母校で人生初の講演♦ 宇部高HPへ 70分間の講演では、SGH事業を通じ、国際交流や各研究に励む生徒さん達に「海外に飛び出してわかったこと~外資系CA、特派員として」と題し、世界での活躍を目指す意義について、社会人の第一歩を海外で迎えた事、ファーストクラスでの逸話、海外メディアで働いて気づいた日本の存在感、60ヶ国以上を旅した経験などを交えてお話しました。 後輩の皆さんは私の要領を得ない話にも(笑)ずっと真剣に耳を傾けてくれ、講演後は好奇心溢れる彼らの質問攻めに遭い、更に後日送られて来た感想文を読むと、各自の実体験と結びつけて丁寧に考えてもらえたようで、その柔軟性と吸収力に感じ入りました。講演を通して、何かを一番つかんだのは、生徒さん達ではなく、私の方だったようです。 ♦最高に濃い3年間♦ 用があって、男子が女子クラスに来たり、逆に女子が男子クラスに行く時は、さすがに教室には入れないので、入口で誰かにお目当ての相手を呼び出してもらうわけですが、みんなの視線が一斉に入口に集まるので、なかなか勇気のいるミッションでした(笑) 高校生活は、生涯友情が続く大切な友人達に出会い、勉強や恋に一喜一憂する最高に濃い3年間でした。先日、久しぶりに高校時代の日記を引っ張り出してみました。昔の日記を読むのはとても恥ずかしいものですが、同時に、若さにあふれ、キラキラ輝いていた頃の自分にたっぷり元気をもらいました。そして、当時の私に見られても恥ずかしくない生き方をしないといけないな~、と反省も… 先生方にも恵まれました。一時期、高校教師(世界史)を目指していたのは、ひとえに宇部高時代の素晴らしい先生方の影響です。成績は、というと、大好きな世界史は卒業までずっとクラスで1番でしたが、数学はとても苦手で、赤点を取った事もあります。 2年生のある定期テストで、世界史が学年トップの98点で、その時の数学はおそらく学年最下位の4点。担任の権田先生から「こんなに極端な生徒は初めてよ」、と言われた程です。その世界史の中村先生、数学の松本先生、ともに今でも年賀状を交換させて頂いてます。 ♦主将の気遣い♦ ご存知のように、野球部の練習は長く忙しく、先に帰って行く”帰宅部”や他の部活の人達をグラウンドから毎日眺めているうちに、自然と何百人もの在校生の顔と名前を覚えてしまったものです(笑) 夏などは厚南の自宅に自転車で帰り着くのは8時半過ぎになっていたり、お正月とお盆くらいしかまともな休日が無い状況でしたが、そんな忙しさも全く厭わず、大好きな野球にどっぷりつかれて至福の日々でした。 今振り返ると「高校の頃、全然遊んでなかった!!」と、ちょっともったいない気もしますが、夢中で夢を追いかけた経験は、自分にとって大きな財産です。一緒に頑張った野球部の仲間とは、当時監督だった石尾先生を囲んで毎年集まったり、東京出張の際に会ったりして、今でもパワーをもらっています。 3年生の夏、甲子園を目指す最後の予選前、こんな事がありました。体育館での壮行式を控えたある日、野球部の中村主将から「マネージャーもステージに上がってね。野球帽もちゃんとかぶってよ♪」と言われました。突然の大胆な提案に驚き、そして素直に嬉しかったです。 今でこそ女子マネは甲子園のグラウンド内やベンチに普通に入れますが、その時代の私達はひたすら陰で選手を支える存在。結局、「前例が無い」という事で、私がチームメイトと一緒に壮行式のステージに上がる機会はありませんでしたが、主将の気遣いが心に沁み、楽しく突っ走った3年間の部活にぴったりの笑顔の締めくくりとなりました。 ♦「楽しい」と「恩返し」♦ 準備をしながら、楽しかった高校時代を思い出し、同時に、あんな素晴らしい日々を与えてくれた母校に少しでも恩返しできたら、という気持ちもあります。小学校でも中学校でも転校を経験した私にとって、入学→卒業まで丸々過ごせたのは宇部高が初めてでした。だから余計に愛着があるのかもしれません。 第1回の九州かたばみ会の開催を通じ、たくさんの素敵な卒業生の方々とお目にかかり、九州近郊の同窓生の輪が広がり、絆が強まった事をとても嬉しく思います。そして、少々申し訳ないのですが、結局母校に恩返しをする間もなく、逆にいっそう母校への恩を感じているこの頃です。 試行錯誤の連続だったこの会も、今では各方面に秀でた実行委員の皆さんが率先して準備を頑張ってくれており、頼もしい限りです。来年5月19日(土)、大幅にパワーアップした第2回九州かたばみ会で皆さまとお会いできるのを楽しみにしております♪ — 西谷 美代子 (にしたに みよこ)
3学期になり、もうじき2年生にあがるタイミングで「10年後の自分に手紙を書いてください。私が預かって、10年後みなさんの家に送ります。」と言われたのです。当時16歳だった私には26歳の自分のイメージが全くできませんでした。家族と離れて暮らすこと自体信じられない程でしたので。ただ凄く大人になってるんだろうなーとぼんやりと思いながら、手紙を書いた気がします。
26歳になった年に先生から本当に手紙が送られてきました。僕自身すっかり忘れていました。26歳の自分に書いた手紙がこちらです。
(思ったより短い!? 内容も結構あっさり目♪)
高校卒業まで海外や飛行機に乗ったことがなかった反動もあり、大学時代はかなり海外へ行きました(33ヵ国・1地域)。世界遺産をめぐることが大好きなので、行きたいところを見つけては、すぐに飛んで行ってました。やはり海外ではトラブルは付き物ですね。仲良くなった現地人に盗難されたり、銃を突きつけられたり、チリの大地震で安否不明者リストに載ったり。今となってはこういうことの方がむしろ思い出として残ってますね。
(禁止区域での撮影だったのでこのあと怒られました。)
(肉眼では雲のようでしたが、カメラではきちんと撮れてました。)
ですが、何より変化したのは見た目かもしれません。
最後に、同窓会の場に呼んでいただいた中川一光さん、HP運営・エッセーの機会をくださった石神美代子さん、ありがとうございました!このご縁に感謝いたします。– 早川 方樹 (はやかわ まさき)
(2017年 校内に掲げられた応援歌。歌詞、覚えてますか?)
先月、スーパー・グローバル・ハイスクール(SGH)に指定されているその宇部高で、1・2年生約500人を前に講演させて頂きました。人前で話すのが苦手なのでとても迷いましたが、せっかく母校から与えて頂いた貴重な機会ですし、少しでも後輩の皆さんのお役に立てれば…とお引き受けました。
実は母校の校舎に入るのは大学時代の教育実習以来でした。私が通っていた頃の宇部高は、一部を除き男女別々のクラスで、私も3年間女子クラスでした。既に取り壊された平中新館という校舎では、廊下を挟んで男子クラスの教室と女子クラスの教室が並んでいたので、「宇部高は男女共学じゃなくて、男女平学だよね」、と言われていました。
(2017年 昔の下足箱は予備ながら健在)
そして当時、何といっても一番打ち込んでいたのが部活です。中学時代に熱血野球少女だった私は、入学と同時に野球部のマネージャーになりました。その頃のクラス写真を見ると、私がぶっちぎりで一番黒く、同級生に「黒雪姫」と呼ばれた事もあります(笑)
九州かたばみ会を立ち上げさせて頂いた後、よく聞かれる質問があります。「なぜ始めたの?」と。答は「楽しいから」と「恩返し」です。
(2016年 クウェート首相来日の為、取材 in 首相官邸)
宇部高校にまつわるエッセーをお寄せください♪
*題材:宇部高にまつわるお話 –“宇部高時代の思い出” “最近の宇部高ってこんな感じです”など
*長さ:800字以上
*写真:1枚以上
*プライバシー:ファーストネームのみやペンネームでもOKです。卒業年は掲載させて頂きます。
送り先 : 九州かたばみ会事務局 メールフォームまたはinfo@qkatabami.net
和田先生のそれはそれは厳しい指導に耐え、また先輩方との温かい家族的雰囲気の中、素敵なハーモニーに3年間どっぷり染まりました。その結果、なんと2年の時にNHK合唱コンクールで見事全国優勝を成し遂げることができたんです。入学当初に思い描いていた結果になったのです。スゴイことです。3年のときも全国準優勝という、黄金時代??にたまたま在籍することができ、本当に幸せ者でした。2年の時の全国優勝では、ちょうど新装になったNHKホール(大晦日の紅白歌合戦の会場)のステージで歌い、ブラウン管をとおして、宇部高の合唱が全国のお茶の間に届けられました。今思うと、宇部高の3年間は合唱三昧でしたが、とても充実した時代であったと、感慨深いものがあります。 卒業後は栃木の大学に進み、森林(林業)を学び、その後造園に興味をもち、千葉にある大学の大学院修士課程に進み、最後は福岡の大学の大学院博士課程にと、大学を3つも転々としました。29歳までずーっと学生でした。とんでもないですね。長い間仕送りをしてくれた親には、とても感謝しています。そういう中で、福岡の大学に進んだことを契機に26歳で結婚しました。ズバリ、学生結婚です。女房にも生活費を工面してもらい、今でも頭が上がりません。 大学に残り、研究を続けたかったのですが、助手のポストもなく、出来の悪い学生でしたので、教授からは大学に残るのは大変だから公務員にでもなったらどうかと。2人の子供がいる身で何とか福岡市役所に新卒で入り、31年間を造園技術職員として、公園緑地関係の仕事に従事しました。その間、アジア太平洋博覧会(よかトピア)、ユニバーシアード福岡大会等々の大きな事業にも関わり、2年間のUR都市機構本社(東京九段下)への出向、福岡アジア都市研究所への出向、また数回の海外出張等、数多くの経験をさせていただきました。ローカルな話で恐縮ですが、今なお多くの家族連れで賑わっている、空港近くの東平尾公園大谷広場の冒険コーナーは、私が担当した数少ない成果品です。 今は、今年3月に福岡市役所を定年退職して、4月から宇部に独り身でUターンし、ときわ動物園でお世話になっています。女房と子ども達は、福岡が大変なお気に入りで福岡から離れようとせず、現在、宇部市梶返の実家で高齢の両親と暮らしています。 生息環境展示という、動物が野生の生息地で生活しているような環境を再現し、檻や柵が最小限の植物を多用した展示手法は、全園をとおした施設としては、国内でときわ動物園だけです。日々違う動きをする動物たちを、ワクワクしながら観てまわる楽しさ、何とも言えません。最高です! 是非、皆さん、ときわ動物園にお越しください。昔のときわ丸があったときの動物園とは全く違う、大変魅力的な動物園が宇部に誕生しました。今、国内の動物園関係者、動物園ファン等々から注目の的です。ときわ動物園、最高に面白いです。 定年後、まさに1年目を迎え、宇部に40数年ぶりに戻り、振り返ってみますと、これまでの数多くの方との出会い、また決して一人では何もできなかったこと、人間一人一人皆違い、多様な考えがあることなど、今61歳にして感慨深く思いにふける今日この頃です。その原点は、宇部高3年間の合唱部活動であり、3つの大学での学生生活で出会った多くの先生や友人、市役所時代の多様な市民との対話、業界の方とのお付き合いなど、これからも数多くの方との出会いと絆は、私の掛け替えのない財産です。 私自身、いろいろな方とのふれ合いや会話を楽しむのが大好きな性分でもあり、おそらく、この性分は小学時代の2年間のアメリカ生活で培ったものと思っていますが、今まで出会った方、またこれから出会う方との、つながりを大事にしていきたいと切に願っています。 これからの九州かたばみ会も、遠慮なくバカ笑い出来るような雰囲気で、楽しくやっていきたいと考えています。宇部から頻繁に福岡に出て来ますので、今後ともよろしくお願いします。– 梶返恭彦 (かじがえし たかひこ) でも中途半端でした。「2軍で負けないくらいになってればいいや」くらいで自分がスタメンとってやろうとか、全く思いませんでした。自分の手の入れようが適当でぬるいことにはわかってるけど「継続して努力する」ということができませんでした。 そしてそのまま時が流れて、引退試合。相手は商業高校で強豪でしたが、かなりいい試合でした。 でも、途中から相手が優勢に。 監督の采配のつらいところで「勝たせてあげたい。でもこれが最後になる可能性があるから卒業生に出させてあげたい」と思われたのだと思います。控え選手が一人ずつ呼ばれて試合に出ましたが、私ともう一人は、最後まで呼ばれませんでした。 私は心の中で、すごく安心してました。「こんなすごい試合には、出たくない。自分にボールが渡ること自体がいやだ」と思ってました。私はガードというボジションで、ここが崩れると自分達の試合をさせてもらえない。 先生は、最後の最後まで「試合に勝つ」ということを諦めていなかったから控え選手も出しながらスタメンが引っ張ってなんとか張り合える構成にしていたんだと思います。 だから最後まで私の出番はなかった。 奇跡と言いたいようなプレーやゴールも何度もありましたが、試合は宇部高の負けでした。 控え室に移動する時に 監督が、私と試合に出られなかったもう一人を呼んで手を握って泣きながら言いました。「試合に出してあげられなくて本当に悪かった」と。その言葉を聞いて、涙が止まりませんでした。 それは、自分が出られなかったことに対して泣いたのではなく 過去の自分の努力の足らなさに心底悔しくて恥ずかしくて情けなくて、でももうそれが過ぎた過去になってしまったことに気づいて涙が止まりませんでした。 これは私の強烈な失敗体験となりました。 卒業してもう10数年立ちますが、最近「どこまでいっても、人は不完全である」ということに気づきました。 もちろん私のように強烈に後悔する前にきちんと毎日やることを決めて努力することは絶対した方がいいと思います。ですが、努力不足で悔やんでも、不完全でも、基本は全て通過点だと考えるようになりました。何かつらいことがあっても前を向き続けると自分に約束をして、何でもいいからその時に小さな一歩を踏み出すことが大切。 そうすると、その経験が、「辛いことがあってもバネにして成長できる人間」にさせてくれます。 辛く強烈な思い出は残りますが、そんなことすら笑いあえる友達を作れたことが宇部高に入って一番良かったなと思えることです。 最後に、九州かたばみ会の設立に尽力され、エッセー掲載の機会を下さり、石神美代子さん、ありがとうございました。今後も宇部高卒の皆様とご縁を築いていければと思っております。 メイクレッスンサロン スリーグラフィティ – 柴田祐美子 (しばた ゆみこ)
上宇部中では野球部に所属し、宇部高では野球部に入り、初の甲子園出場か?あるいは、その当時から有名だった混声合唱部(10年前にNHK合唱コンクール全国優勝)に入り、再度の全国優勝か?どっちにしようか、と悩んだ末(半分冗談ですが)、女子が多い合唱部に入部しました(笑)。もともと、楽器をいじるのが好きで、ピアノもほぼ独学で、自分が楽しむ程度で弾いていましたが、合唱は初めてでした。
NHKホールでの合唱(テレビ放映) (最前列男性の左端が私です)
大学時代の友人たちと (左から2人目の爽やか青年?が私です)
ときわ動物園(檻のない空間を自由に動き回るシロテテナガザル)
私の宇部高時代の思い出は、ほぼ部活動(バスケットボール)の記憶がほとんどです。 入部時から、経験者と未経験者に分かれて練習が始まりました。スタメンはもちろん経験者組。テンション落ちましたが、練習はしてました。(当たり前ですが)
・自分が「出たくない」と思っていたこと
・監督がこんなに泣いているのに自分は出れなかったことに安心していたこと
高校時代の想い出や学びは、沢山ありますが、入学後の全校集会で、当時の校長先生がおっしゃっていた言葉が、とても印象に残っています。その言葉が、今回のタイトルでもある「アクティブにチャレンジ!」という言葉です。「アクティブ」も「チャレンジ」も、よく使われる単語で、「積極的に挑戦をしよう」という話は、何度も聞いたことがありますが、なぜか2つの言葉が組み合わさった「アクティブにチャレンジ!」という言葉が、体育館での全校集会の風景と共に、鮮明に記憶に残っています。
私は、高校時代は、通年の部活に所属しておらず、勉強中心の生活で、学校が終わると、友人たちと塾へ行き、自主室で勉強をして帰宅するというサイクルの繰り返しでした。そんな中でも、夏の高校生クイズ予選へ参加したり、新しくバスケを初めてみたり、文化祭で太鼓を叩いたりと、興味を持ったことには、チャレンジしました。また、高校3年の受験直前に、 どうしても行きたい大学ができてしまい、急遽、志望校を変更するという選択ができたのも、「アクティブにチャレンジ!」の言葉や文化があったからこそだと思います。
高校卒業後は、山口を離れて関東の大学へ進学しましたが、関東でも宇部高の繋がりの強さを感じることができました。大学1年生の夏に、友人に誘われて、初めて参加した「東京かたばみ総会」では、なかなか会う機会がなかった友人と再会できたこと、また、各界でご活躍されている先輩方とお話しさせていただいたことが、大変貴重な経験となりました。
そのような経験と繋がりの中で、大学2年の時に、宇部高の仲間を中心として、有志団体を立ち上げ、山口県の高校生に対するキャリア支援活動を始めました。地方の高校生に将来の選択に関する情報と機会が不足しているという問題意識をきっかけに、地元出身の大学生と交流しながら、将来について考える機会を提供する活動です。この取り組みでも、沢山の宇部高の先輩方にお世話になり、関東で過ごした期間は、山口にいた時よりも、宇部や山口を感じることが多い時間だったと思います。
大学卒業後は、関東を離れて福岡での生活が始まりましたが、九州に来てからも、かたばみ会の懇親会への参加や、福岡在住の同期との飲み会を通して、宇部高の繋がりもさらに広がってきました。同期と飲む機会に、自分のやりたいことや、やるべきことを大切にしながら、色々な分野でチャレンジしている話を聞くと、とても刺激を受けます。
「アクティブにチャレンジ!」という言葉は、宇部高を、本当によく表している言葉だと思います。
私自身、社会人2年目というまだまだ若手の立場ではありますが、宇部高校での「アクティブにチャレンジ!」という“学び”と、先輩方や後輩、同期との“繋がり”を大切にしながら、地元の山口県や社会に貢献するものを創っていきたいと思います。– 江本 卓史(えもと たかし)
寝ていたのに記憶とはおかしな話ですが、もともと中学時代から授業中に良く寝る癖があり、宇部高校に入学した後も授業中に惰眠を貪っていました。いびきをかいては起こされ、いびきをかいては起こされ、クラスメイトや先生方にはご迷惑をかけたと思います。午前の授業を終え、昼休みに入ると5分で弁当を平らげ、図書館に直行、科学雑誌や新聞、明治時代の小説や歴史小説などを読んでいました。当時は文学百選をすべて読んでやるぞ!という意気込みでした。図書室では司書の先生や、他のクラスの友人と仲良くなり、良く本の紹介をお互いにしていました。
自分では手に取らないような本やジャンル違いの本などを紹介してもらい、知見が広がったように思います。授業中の昼寝→昼休みは図書室→放課後は部活、3年間このセットを毎日繰り返していました。休みの日には宇部の市立図書館に行き、ひかり書店で立ち読みし、恩田にあったブックオフで立ち読みという1日で複数の本屋を巡り、漫画を含め、本当によく本を読んでいたと思います。
これだけ授業で寝ていて、図書室にいると、心配になるのが成績です。かろうじてテスト範囲は分かるものの、授業内容は全く分からず、1年生初めての中間試験は下から数えた方が速いという結果でした。これでは行けないと思い一念発起し、期末試験では猛勉強。下から数えるより、上から数えた方が良いという結果になりました。当時の担任からも全同学年で一番順位が上がったと言われ、嬉しかった記憶があります。さて、前述から怠惰さをお見せしておりますが、自分はやれば出来ると思い込んでしまい、その後はまったく勉強しないようになりました。相変わらず、睡眠→図書室→部活→書店というサイクルを繰り返していたものの、何とか関東の大学に後期入試で滑り込むことが出来ました。
運よく関東の大学に進学の後、帰省や旅行の際には宇部高校の友人に非常にお世話になりました。当時茨城県に住んでいた私は帰省のためにJR鈍行が乗り放題の青春18きっぷで鈍行で帰省していました。道中は各地の大学に進学した宇部高校の同窓生の下宿に泊めてもらい、各地を観光しながら帰省。旧交を温めながら、名古屋・京都・岡山等を数泊しながらのんびりと、帰省していました。
そして大学を卒業し社会人となり、福岡に来て、高校時代には交流のなかった同級生とも交流が始まりました。関東の会社に就職したものの、福岡支店に配属。その際の上司は偶然にも宇部高の先輩。就職した会社を辞めて、行く当てもない私に、ご飯をおごってくれたのもまた、宇部高校の友人。考えもなしにお店を始めたときに開店祝いの花を贈ってくれたのも宇部高校の友人。そしてこのたび、九州かたばみ会も結成され、ご縁があり、幹事を務めさせていただくこととなり、学年を超えた交流が出来るようになりました。同窓生との幅広い交流が始まるようになり、大変嬉しく思います。
最後に宣伝になってしまいますが、今年の10月1日から新しく福岡市中央区六本松でブックカフェをオープンする運びとなりました。高校時代は図書室に良く通ったものですが、まさか自分でブックカフェをオープンするとは思ってもみませんでした。名前は「Shoin Cafe」。書院という意味と吉田松陰先生の名前を掛け合わせ、お店の名前としました。宇部や山口にゆかりのある本も置く予定ですので、ぜひお越しいただければ幸いです。– 中川 一光 (なかがわ いっこう)
さて、宇部高校は今も昔も県下有数の進学校として知られております。しかし全員が超優秀というわけではなく、私のような落ちこぼれも含まれているわけです。そんな私でも、楽しい高校生活が遅れたのは、ひとえに宇部高校の自由な校風のおかげであったと思います。本当に授業についていくのは大変で、特に英語や数学は授業の進み方も速くて、全くついていけなかったのをよく覚えています。
そんな中、私の英語は致命的とも言えるレベルで、定期考査の前になるとクラスの友人が「勉強したんか?」と真顔で叱責してくれたものです。その友人は私のバカさ加減に気づいていて、必ず英語の訳のコピーをくれて「訳ぐらい憶えて来い」と叱ってくれました。そのおかげもあって、なんとか宇部高校を卒業し、一浪ののち大学に進学することが出来ました。
浪人生活は伝統の補習課で過ごしました。これまた周囲は秀才揃いの中に紛れ込んでいましたが、楽しい仲間たちでした。その中から大学教授になっている友だちもいて、とても眩しく思います。あの灰色のズボンも、今となっては貴重な体験でした。宇部の街で聞かれると「サビエルの男子部」と適当なことを言っていましたが、そのサビエルが共学になる日がくるとは思いませんでしたね。
さて、補習課時代の夏に、一通のハガキが届きました。ハガキの主は1年と3年の時に同じクラスだったN君。それまで手紙をもらったことなどありませんでした。彼は、勉強はトップクラス、運動も得意、音楽では甘い声で歌い、顔もイケメン、さらにみんなに好かれる好青年。そうです、天が二物どころか沢山の才能を授けた人物でした。ハガキにはデカデカと「永見ちゃん、がんばれ」とかいてありました。京都大学に現役で入学した彼は、浪人中の同級生に激励のハガキを送ってくれたのです。正直、大変驚き、そして嬉しかったです。ただの秀才ではなく、いろんな才能や他人を思いやれる人が集まった高校、それが宇部高校なんだろうなと思いました。その中で高校生活を送れたことは、本当に幸せだったなあと思います。勉強は確かに大変でしたが。
補習課の後、職員室の先生方の反対を押し切って(笑)奈良大学へ進学し、考古学を学びました。そこでも生涯の師と思える先生との出会いがあり、考古学の楽しさに取り憑かれて、かれこれ30年になります。その時、地理を教えておられた相本先生だけが、奈良大学進学を後押ししてくださいました。これから必ず伸びる大学だと。
今思えば、宇部高校での基礎があってこそ、この人生を送れていると、大げさすぎるかも知れませんが思っています。九州でもかたばみ会が誕生し、あの学び舎での交流が再び活性化するかと思うと嬉しくてたまりません。また、会場で皆さんにお会いする日を楽しみにしております。 — 永見 秀徳 (ながみ ひでのり)
宇部高校にまつわるエッセーをお寄せください♪
*題材:宇部高にまつわるお話 –“宇部高時代の思い出” “最近の宇部高ってこんな感じです”など
*長さ:800字以上
*写真:1枚以上
*プライバシー:ファーストネームのみやペンネームでもOKです。卒業年は掲載させて頂きます。
送り先 : 九州かたばみ会事務局 メールフォームまたはinfo@qkatabami.net